聖書箇所ーマタイ福音書5:13~16
◇「13:あなたがたは地の塩である」。塩は塩辛くするためだけに使われるのではない。スイカにかけると甘くなるし、お汁粉にも入れる。塩は食材の味を引き立てるが、塩自体は溶けて消えていく。消しゴムも、間違いを消してきれいな白紙に戻してくれる。その替わり、消しゴムは削れて小さくなり、最後はなくなってしまう。
◇「14:あなたがたは世の光である」。光は塩のように消えてしまったら困る。灯台のように多くの目に触れるような仕方で周囲を照らす。「15:ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」。
◇当時のイスラエルの庶民の家は一部屋だけの構造だったから、燭台の上に灯りは「家の中のものすべてを照らす」ことが出来た。「家」はギリシア語でオイコス、変化形のオイクメネーは「世界」を意味する。真の光なるキリストによって、世界は一つの家となるという信仰であり、世界観である。
◇「世の光」は闇を照らすと共に、進むべき方向を示すものでもある。砂漠でテントで宿泊する時、テントの外の暗闇で用をたす時には、明かりを二つ用意する。一つは手に持って足元を照らし、もう一つは用を足して戻る時に、進む方向を示すためにテントに付けておく。
◇私たちは「地の塩」として、自分を地に溶かし込んでいく働きをすると共に、「世の光」としてキリストの光を輝かせる。ひとつの家である世界の隅々までキリストの光を照らすと共に、闇の中で方向を見失っている人々に、正しい道を指し示す働きをする。それを「伝道」と言う。
◇コロナウイルス以来、教会の力が衰えたと言えるだろう。中野教会も礼拝出席者が減り、徳育幼稚園は園児数が減って財政困難になってきた。しかし覚えたいのは、主イエス・キリストは貧しい馬小屋に生まれた。そして貧しい人、悲しむ人たちのために生きて命を捧げた。「地の塩」のように、自分を消して人を生かす愛を生きた。
◇だからその愛が「光」となった。しかも復活して肉体の限界も超えて、永遠のいのちを指し示す唯一真の「世の光」となった。私たちも「地の塩、世の光」となって、主イエス・キリストの生きたいのちに従いたい。
大村 栄