聖書箇所ーマタイによる福音書11:25~30

◇「28:疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」は私が過去に赴任した教会で看板に書いてあった。それに誘われたかどうか、時々思わぬ訪問者が来訪した。楽しい時もあったが、中にはこの聖句を掲げたことを後悔するような経験もあった。

◇この聖句は28で終わらず、「29:わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」まである。軛(くびき)とは二頭の家畜の首に渡して、鋤や鍬を引かせるもの。日常的な農機具だから、聖書では色々な比喩に用いられた。「重荷」と言い換えてもいいだろう。

◇「28:重荷を負う者」が慰めや救いを求めて来た時、「休ませてあげよう」と慰められるが、同時に「わたしの軛を負い」なさいとも言われる。重荷をおろして憩えと言いつつ、同時にほかの重荷を負えと言うのか。

◇主イエスが「28:重荷」を「29:軛」と言い換えているのは意味がある。前述のように軛は2頭の家畜で担うもの。「重荷」は自分一人で負うが、「」は共に負う者がいること。私一人で負うものでなく、主イエスが共に担って下さるもの、「29:わたし(主イエス)の軛」なのである。

◇今年度の教会標語のⅠコリント15:58「主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っている」。この「主に結ばれている」が、「29:わたしの軛を負いなさい」に連動していると考えられる。

◇「軛を負う」ことを教会学校の子供たちに説明する時、二人が肩を組んで歩く姿勢を見せる。組んだ肩が軛だ。イエス様と肩を組んで、「主に結ばれて」生きる時、その荷は「負いやすく、軽い」どころか、私たちが転びそうになれば支えてくれる。この軛を負って生きることによって、私たちはどんな「苦労が決して無駄にならない」ことを知るのだ。

◇「28:疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」と差し出して下さる主の招きの手に身を委ねることが、「キリストの軛」を負うということなのだ。私たちはいつも、生きる時も死ぬ時も、十字架と復活の主イエス・キリストと共に、「キリストの軛を負って生きる」者であることを、感謝をもって自覚したい。
                             大村 栄