聖書箇所ーマルコ福音書8:31~9:1

◇「34:わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」。私たちはとかく、「福音のために命を失う」より、自分を救う道を考えてしまいそうだ。

◇「人間が事件を引き起こすのではなく、事件の方が人間を選ぶのだ」と言った人がいる。良い事件も悪い事件も、それを担える人、担うべき人を選んで起こるというのだ。

◇事件、すなわち自分の十字架は自分で探し出すものでない。イエスの十字架が、「31:必ず~することになっている」と神に計画されていたように、私たち一人一人に相応しい十字架が、その人に負いうる十字架が運命のように、上から与えられるのである。

◇Ⅰコリ10:13「あなた方を襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。この「試練」を「十字架」と置き換えることもできる。その人が背負わされる十字架は、その人が背負うことの出来る、又背負うべき十字架なのではないか。

◇自分で自分の生き方を築き上げてそれを崩さずに生きる人は、最終的、本質的には命を全うしない。キリストの生き方に従って、試練も課題も神が自分に与えたもうたものとして謙虚に受けとめていくとき、そこに、最終的、本質的に自分の命を全うする(救う)道がある。

◇「ああ主のひとみ、まなざしよ、三たびわが主を否みたる弱きペトロをかえりみて、赦すは誰ぞ、主ならずや」(讃美歌243)。主イエスを否んで「サタン」とまで呼ばれた男が、自力によってではなく、この主のまなざしと忍耐によって、そして何より主の十字架の贖いによ
ってこそ、自分の中にあるサタンを屈服させることができたと言えるだろう。

◇私たちも自分の弱さを自覚し、それでも見捨てられない主のまなざしの中で、自分に託される十字架を背負いつつ、主に従う道を歩もう。     大村 栄