聖書箇所―出エジプト記14:15~31
◇エジプトに寄留していたイスラエルの民は、指導者モーセに率いられてふるさとめがけてシナイの砂漠に足を踏み入れた。エジプトではファラオは民を逃がしたことを惜しみ、軍隊で追い迫った。民井は恐怖のあまり、「ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです」(14:12)と言ったではないか、とモーセにぼやく始末だった。
◇神はモーセに、「16:杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる」と祈りよりも、前進を命じる。ただし祈りが無駄なのではない。前には海、後ろには敵。そういう八方ふさがりの時、しかし上が開いている。神に通じる祈りの道が空いている。水平の世界に行き詰まっても、私たちには垂直の世界に羽ばたくことが出来る。
◇「30:主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた」。この出来事は神の業であって、モーセの功績ではない。民の決断と勇気によるのでもない。ただ彼らは神に祈り、そして神の言葉に聞き従って足を踏み出したのだ。祈りを通して神につながっているなら、その時に取る行動は神の業であり、であるならば恐れずに前進することが出来る。
◇招詞(Ⅰコリント15:58)「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。
◇葦の海の体験は、水の中をくぐるという点で、古き人に死んで新しい人に生まれ変わるバプテスマ、洗礼を連想させるものである。神への信頼と服従という経験が、モーセに率いられた民の新しい出発、信仰の旅立ちだったように、キリスト者は洗礼によって始まる神に対する信仰の旅路をたどるのだ。神に洗礼によって「主に結ばれている」者たちは、命の終わりまで主と共に生き、さらにその先も用意して下さる主に委ねて歩む幸いを生きる者である。