聖書箇所ーコヘレトの言葉3:1~17

◇「1:何事にも時があり/天(てん)の下の出来事にはすべて定められた時がある」。1~8節の間に「」という言葉が30回使われている。すべての「」は運命的に決まっているかのようだ。しかし聖書が言うのは、この世界の出来事は無計画に、自動的に、運命的に進行するのではなく、生ける神の意志によって進行し、生き生きと運行されるということだ。

◇時の最初は「2:生まれる時、死ぬ時」。英語で「生まれる、死ぬ」は、I was born, He is dead.とBe動詞+過去分詞で、普通は受動態で訳される。それを意識して訳せば、ひとは「生まれさせられる、死なされる」となる。まさに「生まれる時、死ぬ時」は受動的に、与えられる時を待つのみだ。

◇しかしそれがいつのことか人間には分からない。「運命的」な出来事だとしても、その時が神の支配の中にあると知るなら事態は変わってくる。詩編90:3では「あなたは(神は)人を塵に返し/「人の子よ、帰れ」と仰せになります」。生死を始め、すべての時は、神の支配の中にあると知ると、謙虚にして豊かな生き方ができるようになるのではないか。

◇「11:神はすべてを時宜にかなうように造り」。以前の口語訳聖書では「神のなされることは皆その時にかなって美しい」。多くの人々に愛されたが、原文に「美しい」の語はない。「時宜にかなう」とは、神の計画に叶うということである。それこそが美しいのだ。

◇続いて「11b:また、永遠を思う心を人に与えられる」。有限の中を生きる私たちでありながら、「永遠」という神の御業を感じとる心を与えられたからこそ、「神のなされることは美しい」と賛美することが出来るのだ。

◇詩編90:12「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」。自分がいつまで、何歳まで、どのように生きるのか、などと推測することではなく、神が「すべてを時宜にかなうように造」られたことを信じ、委ねること、それが本当の「知恵ある心」である。

◇主イエスは十字架の上で「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)と言って息を引き取られた。私たちと同じように、人間としての絶望に呻きながらも、最終的には、すべては神のみ心に委ねる信仰に生きたこの方にならうものでありたい。

                            大村 栄