聖書箇所ーマタイ福音書12:43~50

◇「46:イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた」。並行記事のマルコ3:31では「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた」。

◇彼らは有名人になった息子が、外に立っている我々家族に、向こうから出てきて当然という、家族ゆえの傲慢があったのだろう。私たちも主イエスの側から近づいてくれるのを待つような態度を持ちかねない。

◇J.F.ケネディーの有名な演説、「国家が自分に何をしてくれるかではなく、自分が国家に対して何を出来るかを考えなさい」。「国家」を「教会」、「キリスト」と言い換えることもできる。「キリストが、教会が何をしてくれるかではなく、自分が教会に、キリストに、何を出来るか」。

◇「ホテル家族」という言葉がある。「みんながそれぞれにお客のつもりで、サービスされることだけを求め、互いのために汗を流そうとしない家族」だ。私たちは「ホテル教会」を期待してはいないか。それは外に立って「人をやってイエスを呼ばせた」イエスの母と兄弟たちと同じだ。

◇主はご自分の母、兄弟とは誰かと言った。外で待つ家族でなく、弟子たちを指して、「49:ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」。「50:わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」。

◇「天の父の御心」とは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ)3:16)。その神の愛を実践するために、キリストは「人間の姿で現れ、十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:8)。

◇自分がキリストに何を出来るかを考える以上に、「キリストがすでに私に何をしてくれたか」を考え、それに感謝と献身をもって応答するのだ。

◇「これまでの生活は神からの贈り物、これからの生活は神への捧げものです」(バレンタイン・デ・スーザ)。隣人愛を志し、神への捧げ物となる生活を志す者たちが集まる時、主イエスは、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言う。これはキリストによる「教会設立の宣言」である。

◇そして私たちはここ=教会から、神の愛に生き、実践するためそれぞれの所へ遣わされて行く。その時に主イエスは再び「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言って下さるのである。                 大村 栄