聖書箇所ーマルコによる福音書4:1~20
◇有名な「種を蒔く人」のたとえ。種が蒔かれる地面には4種類がある。13節以下の「たとえの説明」と併せて読むと、①「4:道端」は「15:そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る」。聞いたみ言葉を素直に受け入れないと、その心から御言葉が奪い去られる。②「5:石だらけ」は、「16:御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、17:自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう」人々。信仰が浅い所にしか根付いていない。
◇③「7:茨の中」は、信仰が「19:この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない」。茨は厳しい試練を連想させるが、「富の誘惑」や「欲望」が人を罪に陥れる。
◇以上3つの土地はみ言葉の種を受け入れない「悪い土地」だが、中には収穫に至る種も蒔かれることを信じて、蒔き続けられてきた。福音の種蒔きは、効率の悪い、徒労感のある作業であるとも言える。
◇詩編126「5:涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる」。これはバビロン捕囚からの帰還という希望を歌っている。「4:主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください」。ネゲブとは南部の砂漠、不毛な大地だ。そこに水が流れるように、不可能と思っていたバビロンからの解放が実現する。流して来た涙が「喜びの歌」に変わるような偉大な業が成し遂げられるのだ。
◇ヨハネ12:24「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。地に蒔かれて土に埋まって初めて、一粒の麦は生命力を発揮する。これは主イエスが十字架に死ぬことによって、多くの者たちを生かすとの予告だった。
◇だがこれは悲壮な自己犠牲ではなく、自分の力だけで生きるのでなく、神が責任を持って下さると信じて委ねる自己否定だ。それが永遠の命に至る道だ。「25:この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。十字架と復活によってという奇跡が起こった。ネゲブ砂漠にとうとうと川が流れるような奇跡が、可能になったのである。
大村 栄