聖書箇所ー出エジプト記14:15~31
◇主イエスの宣教の第一声は、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」だった。この「国」は領域でなく、神が王として支配する状態。キリストの到来と共に、「神の直接行動」が開始した。
◇それはマスメディアを活用した大規模な改革などではない。悲しんでいるやもめや、仲間外れのザアカイを訪ね、幼い子供たちを抱き上げるという、一人一人への「愛の行動」である。このような小さな愛の業が始まったということだ。
◇洗礼者ヨハネも同様のことを言った。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3:2)。だがそこには「福音を信じなさい」が抜けている。ヨハネは「蝮の子らよ、…悔い改めにふさわしい実を結べ」(3:7)と神の怒りと裁きの前で反省し、それに相応しい行動を執れと警告したのだ。
◇だが元来メタノイア「悔い改め」の本質は、「反省」程度のことでなく、「方向転換」を意味する。神に立ち帰ることである。造られた者が、造った方に背を向けて生きていたのが、改めて造った方にまっすぐ向いて、造られた者に相応しく愛の方向に向かって生き始めることである。メタノイアの逆さ読みは「愛のため」。恐れのために自分を正そうとするのは、本当の方向転換とは言えない。
◇方向転換だけでなく、「悔い改めて福音を信じなさい」と命じられる。福音を「信じる」のは一種の「賭(かけ)」である。乗る予定の飛行機に墜落の可能性が10%あると言われたら乗らない。この手術を受けたら病が治る確率が10%あると聞けば、厳しい手術でも受ける。聖書の語る福音は真実である可能性が10%あると知ったら、それに賭けてみないだろうか。
◇主イエスから「17:わたしについて来なさい」と招かれて「18:すぐに網を捨てて従った」シモンとアンデレ、「20:父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」ヤコブとヨハネ、彼らはみな、「15:悔い改めて福音を信じなさい」の言葉に突き動かされて、神の愛を信じよう、神の愛を示すこの方に従っていこう、と方向転換を決心したのだ。その決心は悲壮な覚悟と言うより、信じて委ねる「おおらかな楽観主義」であると言えよう。おおらかな生き方を選びたい。 大村 栄