聖書ールカ福音書2:41~52 新年礼拝
◇12歳で成人したイエスは両親に連れられ、村の人々と共にエルサレムへ巡礼に出かけた。礼拝した帰り、両親は息子を見失った。村人たちの中を探しながらエルサレムに戻ってしまい、「46:三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた」。母が見て驚き、叱ろうとすると、言われた「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。
◇礼拝の場である神殿を主は「自分の父の家」と呼んだ。だが主はそこに閉じ籠もってしまった訳ではない。「51:それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」。「礼拝者イエス」は同時に「家庭人イエス」であり、「奉仕者イエス」でもあった。「貧しき憂い、いくる悩み、つぶさになめしこの人を見よ」(讃美歌121)。
◇主イエスは両親と社会に仕えて生きると同時に、「自分の父の家にいる」という信仰を生きた。讃美歌313「この世のつとめいとせわしく、人の声のみしげき時に、内なる宮に逃れゆきて」。
◇「内なる宮」をもって、そこに「逃れ行く」のは、そこに閉じこもったりする逃避行動ではない。内なる宮からこの世の生活に送り出され、また主の家に帰る、そういうサイクルを生きる者でありたい。
◇詩編23:6「命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう」。「主の家」は信仰者が主日毎に帰る礼拝の場である。「生涯、そこにとどまる」ことをダビデは理想としていた。と同時に、「主の家」は、地上での生涯を終えて最後に帰って行く永遠の住まいでもある。
◇「2:わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」(ヨハネ14:2)。今年は心の内に「内なる宮」、「父の家」を持つ信仰者として生きたい。同時にそこから送り出されて奉仕者として人々に仕えよう。そして天の「父の家」におられる主イエスを仰ぎ、最後は主がそこに用意して下さっている永遠のすみかを、「本当の居場所」とすることを望み見よう。 大村 栄