聖書箇所ー出エジプト記14:15~31
◇イスラエルの民はエジプトで奴隷のように酷使され、神に救済を叫び求めると、神は指導者モーセを民の中に立て、エジプトを脱出させた。彼らは故郷を目指してシナイの荒れ野に踏み出した。「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた」(13:21-22)。
◇しかしファラオはイスラエルを去らせたことを後悔し、戦車部隊を動員して自ら指揮をして追いかけた。「葦の海」と呼ばれる水辺に野営するイスラエルに、エジプトの重装備の軍隊が押し寄せた。
◇人々は非常に恐れて「主に向かって叫ぶ」(14:12)、つまり祈るけれど、すぐ次にモーセに文句を言っている。「荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がまし」だったと。パニックを起こしている民に、モーセは訴えた。「13:恐れてはならない。…14:主があなたたちのために戦われる」。
◇しかし神はモーセに言われた、「15:なぜ、わたしに向かって叫ぶのか」。祈りが無用だと言っているのではない。葦の海に行く手を阻まれ、後ろからエジプトの軍隊が襲いかかってくる。そういう八方ふさがりの時、しかし上が開いている。神に通じる祈りの道が空いている。水平の世界に行き詰まっても、私たちには垂直の世界に羽ばたくことが出来る。
◇ただし祈りは立ちすくむことではなく、歩みつつ行うものなのである。「15:イスラエルの人々に命じて出発させなさい。16:杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる」。神はモーセに前進を命じた。現実におびえ憶することなく、縦軸(祈り)を座標にして心を高く上げ、み言葉に聞き従って勇気を持って前進するものでありたい。
◇「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。(Ⅰコリント15:58)。葦の海の体験は、水の中をくぐるという点でバプテスマ、洗礼を連想させるものである。神への信頼と服従が、出エジプトの民の新しい出発、信仰の旅立ちだったように、私たちも洗礼によって「主に結ばれて」信仰の旅路をたどる。
大村 栄