聖書箇所ーホセア書6:1~6
◇紀元前750年頃、世界は北のアッシリアと南のエジプトの2大国が覇権を争う時代だった。周辺諸国は皆どちらに着くか右往左往していた。イスラエルは南に着こうとした結果、北の12部族(エフライム)は滅ぼされた。神の民でありながら、神に頼らず大国に頼ったための滅びだった。
◇6章冒頭「1:さあ、我々は主のもとに帰ろう」。本当の悔い改めなら、まず神に「主よ、おゆるし下さい」と祈るはずだがそうはせず、「1b:主は我々を打たれたが、傷を包んでくださる。」きっと赦して下さると楽観的だ。これは明らかに「偽りの悔い改め」(6章小見出し)だった。
◇しかし神は、「4:エフライムよ/わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか」と悩まれる。「4b:お前たちの愛は朝の霧/すぐに消えうせる露のようだ」と厳しい。彼らの信仰は堕落し、礼拝も形式的なものになっていた。悔い改めの心を持てなかった北イスラエル(エフライム)は、この後アッシリアに徹底的に滅ぼされる。
◇ホセア書11:8では「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。…わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる」。エフライムは滅びた。だが神は平気で滅ぼしたのではない。80年前に終わった戦争も、その後の各地の紛争も、みな神の警告なのかも知れない。
◇悔い改めないがために、何度も警告を受けざるを得ないこの世界だが、その背後に「お前を見捨てることができようか」という神の呻きを聞く。ご自分が愛を持って造った世界と人間であるからこそ、神は「憐れみに胸を焼かれる」と言われる。神の被造物であることを忘れた人類の無自覚さに、神は頭を抱え、胸をかきむしるように悩まれるのだ。
◇だがしかしその悩みの中で、み子の十字架が立てられた。これは神が見出された唯一の解決の方法であり、神の愛と憐れみのしるしであった。
◇広島の原爆死没者慰霊碑にはこう刻まれている。「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」。主語がないことから、原爆や戦争は誰の過ちだったかと責任を問う議論がなされてきたが、これは人類全体が犯した過ちの結果だと言わざるを得ない。私たちは「過ちは繰り返しませぬから」と、心からなる悔い改めを神に祈るものでありたい。
大村 栄 敗戦後80年を覚えて