聖書箇所ー使徒言行録4:32~5:11

◇初代教会では、「32:信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」。平等で階級制がない原始共産的共同体だった。しかし時代はすでに国家や私有財産が存在し、原始的な平等な「愛の共同体」は実現できなかった。

◇20世紀の終りに共産主義の失敗を見た。歴史学者アーノルド・トインビーは言った、「共産主義はまちがいを起こしたのではなく、見落としをしたのだ」。何を見落としたかというと、「自分だけは少しでも良い生活をしたい」という豊かさの中に芽生える欲望、よく言えば向上心。これを無視しては経済生活は成り立たない、というのが20世紀の教訓である。

◇初代教会におけるそういう「見落とし」の象徴とも言うべき事件が、アナニヤとサフィラ夫婦の事件である。アナニヤは自分たちの資産を売った代金の一部だけを持参し、これは私たちの全資産ですとごまかした。しかしペトロにはそれが嘘だということが分かって、「4:どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と非難し、これを聞くとアナニアは倒れて息が絶えた。

◇物質的なものによって共同体の一致を見るのは困難だ。アナニアのルール違反で分かる通りだ。物質的なものがだめなら、地縁・血縁の関係、家族的・血族的な共同体によっては一致し得るだろうか。アナニアとサフィラを見ると、この夫婦という最小単位の共同体にも難しさを感じる。

◇アナニアが死んだあと、それを知らない妻サフィラにペトロが偽りの代金のことを訊くと、彼女は「8:はい、その値段です」と言い、彼女もその場で死んでしまった。真の個人が存在しない共同体は不幸だ。教会は神の前で真に個人として生きる道を伝えたい。この夫婦から反面教師的に学ぶのは、彼らは土地代金をごまかしたという「うしろめたさ」「罪悪感」で一致していたことだ。

◇教会とは「罪人の共同体」であるが、それは正確には「神に赦された罪人の共同体」だ。ペトロはペンテコステの説教で語った、「38:悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」(使徒2:38)。この罪の自覚と悔い改めこそが、教会共同体の原点であり、教会共同体の原点であり、それに対する主の赦しの宣言を取り次ぐのが、教会の使命である。 
                                  大村 栄