聖書箇所ーコロサイの信徒への手紙3:1~11

◇ドイツの児童文学者ミヒャエル・エンデの作品『モモ』(1973)は副題『時間泥棒と、盗まれた時間を人間に取り返してくれた女の子の不思議な物語』。時間に追われ、人間本来の行き方を忘れている現代人に、時間の意味を問い直した傑作だった。

◇エンデは言う、「昨日新しかったことが、今日はもう古いとされる。先を走る者をハアハア舌を出しながら追い掛ける。すでに狂気と化した輪舞です。誰かがスピードを増せば、ほかのみんなも速くなるしかない。この現象を進歩と名付ける私たちです。もう本当に不可能なのでしょうか。私達全員が狂気の輪舞を一斉に中止して、お互い車座になって大地に座る、そして無言で待つ、ということは?」。

◇「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マタイ福音書6:26)。この命は医学的・社会的な命ではない。魂を後ろに置いてきてしまって、抜けがらになって走り続けるのではなく、魂のしっかり詰まった、本当の命 Spiritual Life を生きる命である。

◇その命を私たちに与えるために、キリストは十字架に死んでよみがえられた。そして今は天で、神の右に座しておられる。「1:あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」。
  1 こころを高くあげよう。主のみ声に従い、
    ただ主のみを見上げて、こころを高くあげよう。
  2 霧のようなうれいも、やみのような恐れも、
    みなうしろに投げすて、心を高くあげよう。(讃美歌Ⅱ1)

◇エンデの言う、「私たち全員が狂気の輪舞をいっせいに中止して、おたがいに車座になって大地に座る、そして無言で待つ」。それは主日の礼拝において「心を高くあげ」、みんなで車座になって大地に座り、神の言葉を待ち、遅れがちになっていた自分の魂を、正しく取り戻す時である。

◇様々な恐れに取りつかれ、不安におびえる私たちだが、主の日ごとに主の前に帰り、「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう」(詩編27:1、招詞)という確信を取り戻す日曜日でありたい。
                      大村 栄