聖書箇所ーマルコ福音書10:1~12
◇ファリサイ派の人々が主イエスに陰険な質問をした。「2:夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」。当時は男が女を離縁して追い出すことは、日常的に行われていた。それは遙か以前のモーセが律法で許可していた。
◇申命記24:1「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」。モーセが良いと言っているのにイエスがだめだと言ったら、それはモーセの律法に背く犯罪行為だ。
◇イエスは言われた「5:あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」。モーセの離婚の許可は、緊急避難的な措置だった。「恥ずべきこと」の究極は不貞だ。姦淫を行ったものは男でも女でも死刑に処せられる。それではあまりに酷なので、モーセは、「離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」ことが出来るようにした。離縁状があれば彼女は再婚も出来る。命を尊び、悔い改めの機会を与えたのだ。
◇だがしかし、イエスに論争を挑んできた者たちは、モーセが離婚を許可したとだけ捉え、男の勝手が赦されると曲解している。それをイエスは彼らの「5:頑固」さだと言うのだ。
◇離婚して良いか悪いか、モーセはいいと言ってるけど、あんたはどう言うんだと挑戦的に問いかけてきたファリサイ派の人々に対して、主イエスは、天地創造以来の結婚の秩序を彼らに教えた。「7:人は父母を離れてその妻と結ばれ、8:二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。9:従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。モーセ以前のこの大前提を軽んじてはならない。
◇ファリサイ派は尊重すべきものを第一とせずに枝葉末節を論じている。例えば遅刻は何回まで許されるか、と問うており、それへの主イエスの答えは、第一に何のために学校へ行くのかを考えよ言っているのだ。
◇私たちには夫婦や家族に限らず、共に生きる者との出会いが与えられている。それらの人々を「神が合わせられた者」だと信じよう。そして「9:神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。その人々と共に生きる喜びと責任を覚えよう。
大村 栄