聖書箇所-マタイ福音書18:10~20
◇テキストの前半は「迷い出た羊のたとえ」。100匹の群から一匹がいなくなってた。羊飼いは心配で「12:九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに」行った。羊飼いは100という数を大事にしたのではない。「13:はっきり言っておくが、もしそれを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう」。迷い出た一匹を捜すことは、百匹の羊すべてを等しく愛することなのだ。
◇「12:山に残しておいて」。マタイにおける「山」は「山上の説教」や「山上の変貌」を連想させる。主イエスが神の子であることが明らかになる場所だった。ここから「山」は「教会」を暗示すると考えられる。
◇羊の群は教会に集められた神の家族を象徴する。詩編100:3「わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」。しかしその教会の群れから迷い出る羊がいた時に、99匹を「12:山に残しておいて」、迷い出た一匹を本来の居場所である教会に戻すのがこの群れの使命だ。
◇後半は教会の活動に関する注意だ。「15:兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」。まずは一対一で。そして「16:聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」さらに「17:それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」。最後は罪人と同じような冷淡な扱いだ。
◇温かく群に迎えるだけではなく、厳しい告発と宣告がなされるのも、教会に託された権威の重さである。「18:はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。拘束と解放は罪の束縛からの解放である。
◇教会の葬儀「火葬前式」で故人の「罪の赦し」が祈られる。ゆるしは「許可」ではなく、罪に対する罰を免れる「赦し」である。「どうか、平和の神御自身が、あなたを全く聖なる者としてくださいますように」(Ⅰテサロニケ5章23節)。生前に過ちを犯した人でも、最期の祈りにおいて赦され、「全く聖なる者」とされる。それが「二人または三人がわたしの名によって集まる」という教会の祈りの力なのだ。
大村 栄