聖書箇所ーマタイ福音書13:44~52
◇「44:天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」。偶然に宝を掘り当てた農夫は、自分の持ち物を売り払って資金を作り、その土地を購入する。宝を入手するために、一切のものを手放すという、大胆な決断である。宝の存在に気づいて、そのために集中して生きるのが、「天の国」を生きるということだ。
◇第二のたとえ。「45:また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。46:高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」。畑の宝は偶然発見したものだったが、高価な真珠は専門の商人が、時間と労力をかけて探し求めて見つけたものである。神の恵みを知るのは偶然とは限らない。熱心な探求の結果与えられるものでもある。そしてそれを発見したなら、「46:持ち物をすっかり売り払い、それを買う」。この点は畑の宝と同じだ。
◇パウロはフィリピ書で自分自身の優れた価値を列記するが、「3:8 主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」と言う。それほどの価値を知るのが「天の国」の信仰である。
◇第3のたとえには少々緊張が伴う。私たちの信仰生活はガリラヤ湖の漁に似ている。網が湖に投げ下ろされ、上がった獲物は「良いもの」と「悪いもの」により分けられる。それを選り分けるのは私たちではなく、最後に神がなさる。「終末の審判」のこと。
◇第4のたとえで、「51:天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」とある。キリストの福音を聞いた者は、「良いもの」と「悪いもの」を見分けることができる。パウロの言うように「すばらしい」ものと「他の一切は損失」と思えるほどの素晴らしいものとがある。
◇創立100年の中野教会と徳育幼稚園には、古くても大切なものや、新しくても不要なものとがある。それらを見分ける信仰の目が必要不可欠だ。「51:天の国のことを学んだ学者」のような信仰の知恵をもって教会を建て直したい。「変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」(ラインホルト・ニーバーの祈り)。
大村 栄