聖書ー マルコ福音書1:1~11

◇マルコの告げる「1:神の子イエス・キリストの福音の初め」は、旧約イザヤ書の引用で始まる。「2:主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」そしてその道筋を整える者として「4:洗礼者ヨハネが荒れ野に現れた」。

◇イエスの遠縁に当たるヨハネは、イザヤの預言した通り、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3:2)と叫び、傲慢を捨てて主の前にひれ伏す悔い改め勧めた。その言葉に多くの者が聞き従いヨルダン川で洗礼を受けた。そして待ちに待った主イエスがヨルダン川に登場する。

◇主はヨハネの前に跪いて、彼からバプテスマを受けることを望まれた。ヨハネは「それを思いとどまらせよう」とした(マタイ3:14)が、イエスはあくまで一人の無名の庶民として、並んで順番を待ち、ヨハネからバプテスマを受けられた。「洗礼」は一人の無力な人間として、神の前に恐れおののきを持ってひざまずくということだ。

◇「神の子」メシアとしての出発は、悪魔の試練に勝利したとか、何か悟りを開いたとかいうことなどではなく、ただ一人の人間として、民衆の一人になってヨハネからバプテスマを受けたということだった。それが神の御心に適い、天から聖霊が鳩のように降り、「11:あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の承認が与えられた。

◇「わたしの心に適う者」と言えば、ベツレヘム郊外で羊飼いたちに注がれた天使の讃美を連想する。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2:14)。「御心に適う」とは決して特別な能力や資格を持つことではなく、跪いて神に従い、信頼するしか他に道はないということに気付いて、実行に移す人の行動である。

◇その行動を通して天国の門が開けた。「あめのとびら今しも開かれ」(讃美歌102)。洗礼によって天国の扉を開き、そこへと向かう道を示すために、クリスマスに来て下さったのが御子イエスだ。

◇人生と歴史の始めから終わりまで、すべてを支配する神に全身全霊を委ねるしるしとしての洗礼を、キリストと共に受け、キリストによって開かれた天国に帰る。そんな生涯をたどるのがクリスチャンではないか。そんな「天に栄光」を仰ぐ人々を用いて、「地に平和」は実現されるのだ。               大村 栄