聖書箇所ー使徒言行録17:16~34

◇パウロは憧れのギリシア文化の都アテネに立った。だがそこには失望があった。パウロは「16:この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した」。モーセの十戒以来、「偶像礼拝の禁止」は大原則だ。

◇日本に住む私たちも偶像に取り巻かれている。だがそれらに心底手を合わせている人たちに対して、私はパウロのように憤慨はしない。母の病気が直るように、娘の出産が無事にできるようにと、真剣に祈っている人を馬鹿にする気はない。

◇パウロがおびただしい偶像をみて憤ったのは、むしろ本当の神を知らない者に対する哀れみであり、悲しみに近いものだったのではないか。あこがれの学問と文化の都で、高い知識と深い教養を身に付けた人々が、本当に拝むべき神を知らず、原始的な偶像崇拝に浸っている。憤りを越えて悲しみがパウロにあったのだ。

◇「22:パウロは、アレオパゴス(会議場)の真ん中に立って言った。アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます(これは実は皮肉だ)。23:道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなもの(偶像)を見ていると、「知られざる神に」と刻まれている祭壇さえ見つけたからです」。

それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの(本当に拝むべきもの)、それをわたしはお知らせしましょう。24:世界とその中の万物とを造られた神が、その方です」。神は被造物ではなく、創造主である。「28:皆さんのうちのある詩人たちも、「我らは神の中に生き、動き、存在する」と言っているとおりです」。

◇神は我らの手の中にあるのでなく、我らが神の手の中にあるのだ。E・ブルンナー「神はあなたの知識の中にいまし給わずして、神の中にあなたの知識がある」。

◇パウロの熱弁を聞いて、「32:ある者はあざ笑い、ある者は「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った」。パウロの熱意は伝わらなかった。信仰は説得して納得させるものではない。愛の告白が、言う側が真剣に語り、聞く側がそれに感動して心を開いて受け入れてこそ愛が実るように、福音もきっと伝わるのだ。

◇「34:しかし、彼についていって信仰に入った者も、何人かいた」。私たちの伝道は失敗が多いが、神はそこにもなお、人を備えていて下さるに違いない。

                               大村 栄