聖書箇所ーマタイによる福音書6:1~15
◇テキスト前半1-4節のテーマは「施し」。「3:施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」。自分自身でも意識しないほどに行えと言う。「4:隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」から。
◇その延長でテーマは「祈り」に移っていく。「5:祈るときには、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む」。むしろ人目を避けて、「6:奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」。そして「祈り」へテーマは移り、模範として「主の祈り」が与えられる。
◇「9:だから、こう祈りなさい。「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。10:御国が来ますように。御心が行われますように」」。「御名」(神ご自身)が崇められ、「御国」(神の支配)が来たり、「御心」(神の意志)の三つが行われますようにと祈るべきである。
◇多くの宗教の祈りは神々を動かして、自分の目的を遂げようとする手段だが、聖書の教える祈りは、自己の意志を神の意志に従わせる努力である。
◇後の三つは、日毎の糧、罪の赦し、悪(誘惑)からの救いが挙げられる。前半は神に従う祈りだったが、後半は私たち自身の身心のために祈って良い。特に最初の「日毎の糧」は現実的な関心事だ。ただし「日用の糧を今日も、明日もずっと与えたまえ」ではない。「11:必要な糧を今日与えてください」。今日必要なもの以上要求してはならない。ここにも神の意志に委ねる信頼がある。そして「私に必要な糧」ではなく、「わたしたちに必要な糧」。自分だけ良ければという独占的要求とは違う。「私」を含む一人称複数の「私たち」には、世界で傷つき悩む人々が入るのか。
◇「12:わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。「赦すから赦して下さい」や「赦してくれたら赦します」は、いずれも神と駆け引きをしているようでおかしい。条件や前提と結果という問題ではなく、神と人との縦の関係が、人と人の横の関係に大きく影響してくるということだ。
◇「キリスト者とは『主の祈り』を祈る人間に他ならない」と言った人がいる。まさにこれは祈りの原点であり、「究極の祈り」なのである。
大村 栄