聖書箇所ーヨハネによる福音書14:1~11

◇弟子たちの敬愛してきたイエス様が、犯罪人のように十字架で殺されると自らおっしゃる。青春を捧げて従ってきた先生を、そんな形で失うのは彼らには耐え難かったろう。だが主イエスはそんな彼らに言われる、「1:心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。

◇主が天へ帰ることには理由と目的があるからだ。「2:わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」。天の住まいを用意するために主は昇られるのだ。それによって私たちに死後の行き先、天国が与えられる。

◇被造物の中で、人間だけが自分の死を知っていると言われる。「人間の偉大さは、人間が自分の惨めなことを知っている点である」(パスカル)。しかし死の先にもう一つ行くところがあると知った時、人間は死に対する焦りや不安から、惨めさからも解放され、最期まで神に作られたものにふさわしく、充実した生を全うすることが出来る。

◇「人間を最期まで支えるのは、良き思い出と、死後への希望です」という言葉を聞いたことがある。良い思い出と共に人間の一番大事な最期を支える希望が、キリストの復活と昇天によって実現したのだ。

◇5節でトマスが問う。「5:主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」。天国への道はどこにあるのかと問うている。主は答えて、「6:わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。主ご自身が、天国への道なのである。

◇主は弟子たちに、「4:その道をあなたがたは知っている」と言われるが、トマスは「5:わたしたちには分かりません」と言う。聖書の「知る」は、知的な理解ではない。創世記4:1「アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産んだ」。そしてこれは一方的ではない。私は相手を知っているが、相手は私を知らないということはない。両者の絆が成り立っている。

◇道を知るために、頑張って歩かねば、と焦る必要はない。「4:その道をあなたがたは知っている」。すでにその道に置かれている自分を発見し、感謝してそこを歩んでいくことだ。「いかに幸いなことでしょう。あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は」(詩編84:6)。
                            大村 栄