聖書箇所    ヨハネによる福音書1:35~51

◇主イエスはカナの村で、名もない家庭の婚宴の婚宴で奇跡を行われた。何日も続く祝宴の途中でぶどう酒がなくなってしまった。イエスの母マリアは「3:ぶどう酒がなくなりました」とイエスに訴えるのである。

◇しかし主は冷たく応える。「4:婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。しかしマリアは召使いたちに「5:この人が何か言いつけたら、その通りにして下さい」と言った。要求を退けられても諦めず、さらにイエスへの信頼を深めていく。

◇「6:そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった」。大量の水を用いる「清め」とは、律法の規定に従って手足や食器を始め、あらゆるものを水で洗って汚れを清める。それは時には人を萎縮させ、自由を奪う。またを実行できる人とできない人とを差別する。

◇主イエスは、そのような裁きと躓きの器だった「7:水がめに水をいっぱい入れなさい」と命じ、その水を喜びの酒に変えた。キリストが世に来られたのは、渇いた人間の心に潤いを与え、枯れた世界に花を咲かせるためだ。主と共に生きる時、婚礼にまさる大きな喜びがあるのだ。

◇宴会の世話役が花婿に、普通は始めに良い酒を出して、終わりに酔った頃に悪い酒を出すのに、ここではその順序が逆だと言う。イエスと共に生きる生涯は「終わりほど良い」という世界である。The last is the best. 人生の終わり、死の先に天国への道があり、歴史の終わりに世界の完成がある。そこへと向かう道は、終わりほど良いのだ。

◇世話役はこの事態を不思議がったが、「9:水をくんだ召使いたちは知っていた」。大量の水くみというきつい仕事を命じられ、意味も分からず従った彼らだが、それをし終えたときに大いなる奇跡に触れた。

◇「4:わたしの時はまだ来ていません」と言ったが、ヨハネ12章で「23:人の子が栄光を受ける時が来た」。それは十字架の直前だ。そして「24:一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。主イエスの十字架の死と復活によって、すべての人に永遠の命を生きる素晴らしい未来が開かれる。その最後の、最高の喜びのために、私たちは水くみの奉仕をするのだ。 (大村 栄)