聖書箇所ーマルコ福音書18:1~5   <子供祝福式礼拝>

◇主イエスが幼子を抱きあげて、「5:わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われたのは、子供が弱い者だからでない。子供は大人の存在と助けなしに生きられない。これを受け入れるとは、私たちが自分を差し出し、自分を削っていく決断をすること。そして自分を自分の思う通りに、楽しんで生きていきたいと願う願望をあきらめることを意味する。

◇幼い子供を失って失望し、酒浸りになっていた靴屋のマルチンが、古本屋で手にした聖書を読むようになった。ある晩キリストの声が聞こえ、「明日あなたの家に行くよ」と言われた。彼は朝から準備して待った。

◇しかし現れたのは年取った雪かきのおじさんだった。咳をしながらも寒そうに道路の雪をかいている。「ちょっとうちに入って、ストーブのそばで温かいお茶を飲んでいきなさい」と招き入れた。「ありがとうございます。おかげさまで身体が温まりました」と言って去った。

◇次に乳飲み子を抱えた若いお母さんが通りかかった。赤ちゃんが泣いている。「まあ入んなさい、赤ちゃんにミルクを暖めるから、あんたも温かいお茶を飲みなさい」。このお母さんも感謝して出て行った。

◇すると「まてーどろぼうー!」と叫ぶ八百屋の女将さんと果物を盗んだ少年が走ってきた。「今日は大切なお客が来るのに」と思いつつもマルチンは見捨てられず、「まあまあこの子にも訳があるのだろう。私が代金を払ってあげるから赦してやりなさい」と言って二人をとりなした。

◇夜になってもついにイエスさまは来られなかった。がっかりして寝床についた時、再び主の声が聞こえる。「私は今日、あなたの所へ行ったよ」。そしてマルチンが今日もてなした人々の姿が、走馬燈のように浮かぶ。そこで聞こえたのが、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40)。

◇「靴屋のマルチン」原題は「愛あるところに神あり」というトルストイの短編小説だ。隣人愛を強要するのではなく、愛を通して神に出会う方法を教えてくれた。そして主イエス自らもその教えに生き、私という「最も小さい者の一人」を受け入れて下さったのだ。

                       大村 栄